|24年12月6日 |中島 |
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5日、木曜日。いつものように新事務所へ。
雑務。みんなの家ななくさの住宅さん、来所。7日の人権学習集会、彼女が司会担当に。その進行について打ち合わせ。
妹尾青年から、当日の冊子に組み立てた版下、ラインで送られてきます。何回かのやり取りで印刷にかけてもらいます。
ハレノワ劇場に。市民劇場、俺たちは天使じゃない、の公演です。日程上、いつも行く西大寺公民会館には行けなかって、岡山市での公演はこの日が最終日でした。ミュージカルです。手拍子も楽しく、気分がほぐれます。役者さんたちと握手までしました。
帰りに食料を買っておきます。
新事務所に帰ってきます。視覚障害者友の会の岡崎さんから電話、JOAKラジオ深夜便の人権週間としてのインタビュー、録音しているよ、と。袴田巌さんの事件では元裁判官が、布川事件では桜井昌司さんの連れ合いさんが、それぞれインタビューに答えています。
翌日の革新懇事務局会議のレジメがラインで送られてきます。人権連の機関紙、「地域と人権・岡山版」の版下も。県のパブリックコメントに対応するため、第4次・生き活きプランに目を通してみたり。
夕方、7時半ころ帰宅です。
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|24年12月5日 |中島 |
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3日、火曜日。
いつものように新事務所へ。7日開催の学習集会の当日配布する冊子の内容などを整理。表紙を妹尾青年にお願いです。主催者あいさつ文を思案。長めに書いておいて、当日は簡単にしよう、ときめて取り掛かります。
午後、アジア国際センターのUさんと面談、元気そうな顔色を見て、またまた来るからと早めに退室。法人理事の三戸さん宅にも訪問でした。
夕方、ズームで会議に参加。8時半すぎて帰宅でした。
4日、水曜日。今年の人権週間の初日です。
韓国の戒厳令のこと、夜中に発令・施行し明け方に解除した、という話にびっくり。前日にあったUさんたちはどんな思いなのか、と。1980年に戒厳令で多数の市民が犠牲になった光州市へ、2005年に三戸さんや大森久雄先生たち有志といったこと、思い出します。
いつものように新事務所へ。みんなの家ななくさの住宅さんと、地域づくりの視点で事業所運営をという話、真剣に話します。気分は少し追いかけられているかなと、自分自身でも感じ取れます。
カメラのキタムラに。先般津山に出向いた時の写真を現像しておきます。
朝炊いた豆ごはんを母親に届けます。
午後、民主会館へ。7日の学習集会の冊子用のデータ、妹尾青年に手渡します。
岡山県地域人権問題研究集会実行委員会の2024年度第4回事務局会議。11人のメンバーのうち7人が参加。10日開催の今年度第3回実行委員会会議の提案内容などが主題。具体的要求運動と憲法との関連について、現場では有機的に連動していくための視点と理論的整理が必要なのではという立場で論議が交わされます。要求運動から政策提案、そして憲法を生かす政治へという発展が求められている、という視点でもあります。そこまで到達するためには何が必要なのか、要求運動自体がそんなに活性化されていない、共同して取り組むという運動量自体が低迷しているのではないか、これらに対応して苦慮している組織運営に当たっているいろんな組織の現状が頭をよぎります。そういう状況だからこそ、研究集会の内容をきちんと一つ一つ積み上げていく大切さを強調されることも理解はできます。
終えて、岡山駅西口へ。短時間、喫茶店で休憩。頭を冷やします。この日は47回目の結婚記念日。連れ合いにお寿司でもと頼まれていたので、サンステの吾妻寿司でテイクアウト。
新事務所にいったん戻って雑務。7時半ころ帰宅でした。
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|24年12月4日 |中島 |
視覚障害者友の会の岡崎茂明さんからのたより、です。
12月4日から10日まで、人権週間とされています。
10日の国際人権デーには、ノルウェーのオスロでノーベル平和賞の授与式があり、日本被団協の方たちが参加されます。
そういう情勢です。ぜひ、皆さんに聞いてほしい、という願いとともに。
以下紹介します。
JOAK-FM_伊集院光の百年ラヂオ-街頭録音?原爆投下から4年後の長崎の小学校?_20241110_1100_1150 (2).mp3 54550キロバイト
https://www.dropbox.com/scl/fi/ma5pb4thafarhrznlt4m3/JOAK-FM_-4-_20241110_1100_1150-2.mp3?rlkey=x3idvybnid59b82bauw307aag&dl=0
上のアドレスを開くと、山里小学校での子供たちへのインタビュを聞いていただけます。
この中で、永井博士の娘さんの茅乃さんは、「お父さんは元気です」と話しています。
博士は、2年後、43歳の若さで亡くなられました。
茅乃さんは2008年に66歳で亡くなっています。
筒井茅乃(旧姓永井)氏による被爆者証言
https://www.google.co.jp/url?esrc=s&q=&rct=j&sa=U&url=https://www.youtube.com/watch%3Fv%3DqvNnZ5YnjrM&ved=2ahUKEwiOi672__yJAxXKka8BHY10NNsQtwJ6BAgFEAE&usg=AOvVaw1EtMXfs5Ue42yLITrcxwXv
Microsoft edge Copilotに永井隆博士・長崎の鐘について聞いてみました。
永井隆博士(1908年2月3日 – 1951年5月1日)は、日本の医師であり、放射線医学の研究者として知られています。彼は長崎医科大学(現在の長崎大学医学部)で教鞭をとり、特に放射線治療の分野で多くの業績を残しました –
1945年8月9日の長崎への原子爆弾投下時、永井博士は長崎医科大学病院で診察中に被爆し、重傷を負いましたが、その後も被爆者の救護活動に尽力しました。彼は自身も白血病を患いながらも、被爆者の治療と長崎の復興に尽力し続けました。
永井博士はまた、多くの著作を残しており、その中でも『長崎の鐘』や『この子を残して』などが有名です。これらの著作を通じて、彼は平和と人間愛の精神を訴え続けました 何か他に知りたいことがあれば教えてください。
回答の中では、ウイキペディアのリンク先が紹介されていました。
長崎の鐘 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E3%81%AE%E9%90%98
「長崎の鐘」
藤山一郎 の シングル
リリース
1949年7月1日
サトウハチロー(作詞)
古関裕而(作曲)
藤山一郎の楽曲。作詞・サトウハチロー、作曲・古関裕而。1949年(昭和24年)7月1日にコロムビアレコードからシングルレコードが発売された。
概要?[編集]
藤山は1951年(昭和26年)1月3日放送のNHK『第1回NHK紅白歌合戦』で本曲を歌唱し、白組トリおよび大トリを務めた。紅白ではその後も1964年(昭和39年)・第15回、1973年(昭和48年)・第24回(特別出演)、1979年(昭和54年)・第30回(特別出演、メドレーの2曲目で歌唱)の3回歌唱された。
「長崎の鐘」の吹き込みは最初、池真理子で行おうとレコード会社は考えていたが、歌詞を見た池は「『長崎の鐘』は永井隆博士のご心境を歌ったものであるから、男の人が歌うべき」と思い、尊敬していた藤山一郎による吹き込みを切望し、会社側を説得した。自身は母の気持ちを歌ったB面「いとし吾が子」を吹き込んだ。
ヒットの要因?[編集]
サトウハチローの詞には、原爆を直接描写した部分は全くない(当時の米軍の検閲をはばかったものと思われる)。単に長崎だけではなく、戦災を受けた全ての受難者に対する鎮魂歌であり、打ちひしがれた人々のために再起を願った詞である。古関裕而が作曲し、藤山一郎が優秀な音楽技術で格調高く美しく歌い上げた。なお、サトウの弟(節)も広島の原爆の犠牲者となっている。
レコーディングには逸話が残っている。1949年4月4日、この曲を吹き込むからから来てほしいとコロムビアから彼の家に電話があった。当日藤山は疲労のため体調を崩し40度近い高熱を出し苦しんでいたので、断ろうとした。しかし式場隆三郎や山下清ら関係者がすでにコロムビアのスタジオに来ているということを聞き、妻の運転する車でスタジオに向かった。あくまで関係者に聞かせるための仮録音だからと言われ、病気の藤山は力なく唄った。しかしその歌唱はスタッフ・関係者一同の感動を呼び、再吹き込みを経ることなくそのまま発売された[要検証 ? ノート]。このことはNHKのラジオ番組「昭和歌謡大全集」(小池勇・泉ピン子司会)に藤山が出演した際、彼自身が語っている。藤山は「僕はよい曲を貰うと元気一杯に歌ってしまう。あの時もしも体調を崩していなかったら、この曲はあんなに売れなかっただろう」と述べている。
新しき朝?[編集]
本作を聴いて感動した永井は、「新しき朝」と題する短歌を詠み、古関・サトウ・藤山に贈った。
古関はこれにも曲をつけているが、この曲はソプラノ歌手藍川由美のアルバムCD『古関裕而歌曲集』(1996年)に収録されたのが初録音である。同アルバムには「長崎の鐘」も収録されている。
藤山は自分の作曲による「新しき朝」を、1959年(昭和34年)収録版の「長崎の鐘」の最後にコーダとして収録。ステージでも、たまに歌っていた。
藤原義江の曲?[編集]
藤山一郎版のシングル発売の2か月後、永井一家と交流のあった植本一雄の作詞・作曲による藤原義江の歌謡曲が、同タイトルで発表されている。
長崎の鐘
藤山一郎
作詞:サトウハチロー
作曲:古関裕而
こよなく晴れた 青空を
悲しと思う せつなさよ
うねりの波の 人の世に
はかなく生きる 野の花よ
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る
召されて妻は 天国へ
別れてひとり 旅立ちぬ
かたみに残る ロザリオの
鎖に白き わが涙
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る
こころの罪を うちあけて
更けゆく夜の 月すみぬ
貧しき家の 柱にも
気高く白き マリア様
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る
長崎の鐘 「作曲 古関裕而」 昭和24年 (唄 藤山一郎) – YouTube
https://www.google.co.jp/url?esrc=s&q=&rct=j&sa=U&url=https://www.youtube.com/watch%3Fv%3DZWgKWgE5nFU&ved=2ahUKEwirxsr7w_SJAxV4klYBHV6EDPQQtwJ6BAgGEAE&usg=AOvVaw0saM2ymnfOda_qU0-DtFGD
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|24年12月3日 |中島 |
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12月1日、日曜日。
京都からの帰りに姫路へ。
久しぶりにお城周辺を散策。西側の堀に沿ってお城の北側を歩きます。姫山公園とあります。高校生とき、市川町から来ていた同級生がこのあたりで一人暮らしをしていて、彼に誘われてその家に入り込んで飲めないお酒を舐めてみた、どんな夢を持っているだよなどと話し合って、その彼は医者をめざしていたことなども思い出します。姫路の動物園の象が見たくてちょっと入ってみます。入場料は250円、市立だから手ごろです。動物園の関係者の方に聞いてみると、象の姫子は亡くなった、と。姫子の家は空のまま。動物園をでて、母校の高校もすぐ目の前にありました。当時は市役所だった赤レンガの建物は姫路市立美術館に。高校生時代に市役所を使うのは、食堂の昼ご飯を食べに行くとき程度だったな、と。
岡山に帰ってきて、岡山駅西口から歩いて新事務所へ。さすがに疲れて、ひと休憩です。雑務。そして翌日の、NPO地域人権みんなの会の事務局会議の準備です。この日、黒い雨訴訟を支援する会に参加してきた中島青年、来所。年末の餅つきの宣伝・予約申し入れ書をななくさとだんだんに届けてきた、と。
2日、月曜日。いつものように朝風呂で身支度。新事務所へ。
雑務。釣りクラブのFさんから前夜の例会の報告が届きます。7人の参加で、みなさん黒メバルが結構釣れたようです。早くも新年会の案内も。
前日の続き、この日の法人事務局会議のレジメなど準備です。12月7日の人権学習集会の諸準備で、届いていない資料のことで連絡を入れます。
みんなの家ななくさの住宅さん、眼科診察に行く前にと立ち寄ってくれます。事業所の取り組みと本部の機能・役割、この連携の大切さを話し合います。
民主会館へ。12月7日の「あなたとともに考える人権学習集会」の事務局会議、この日は4人会議でした。当日の進行と役割、参加者集約、当日資料の作成、この3つについて意思統一。
講演は、「コスタリカで学んだ人権認識を育む教育」。講師は木村高清さん、社会福祉法人にじのこ福祉会理事長、岡山医療生協 元理事長です。
介護現場からの実践報告として、みんなの家だんだん、みえさんちの家、コープデイサービス福浜、みんなの家ななくさから発言をしていただきます。その他、小規模多機能いほり、中央福祉会の参加された方からのフロワー発言も期待できそうです。
終えて、車を出そうとするときに電話が重なります。兵庫の先輩とは、和歌山市で八鹿高校事件50周年を記念する集会が実行委員会方式で開催されたこと、大阪府の行政対応のこと、兵庫県の自覚的な地域運動のことなど話し合います。視覚障害者友の会の岡崎さんからは、録音しているからCDにして送るよ、と。永井隆博士作詞「あの子」の朗読 – 長崎市立山里小学校 あの子らの碑の前で、?平和の灯コンサート・平和の泉 や作曲 古関裕而、唄 は藤山一郎の「長崎の鐘」などが入れられた独自のものだそうです。ITなどで人権にかかわる発信していくセンター的なものが欲しい、という話にも。
午後、みんなの家かるがもに走ります。Kさんの10年勤続の表彰です。利用者、スタッフ合わせて10人ほどの皆さんから大きな拍手を受けていました。短時間ですが、管理者、事務長を交えて話します。どうも意思疎通が良くない、と思われる状態が垣間見られます。客観的に状況をつかみ、自主的・自覚的に考えて行動してもらう、そのためには・・・。
買い物を済ませて、母親のアパートへ。食料を手渡します。新事務所に帰ります。届いている資料整理です。7日の集会のあいさつ文も考えていきます。
7時半過ぎ、みんなの家だんだんの佐々木さん、来所。利用者さんの退院時期などを聞かせてくれます。利用者さんを本当に大切にしている事業所で体験・経験してきたその蓄積を、地域社会に生かすための新たなネット的なとりくみの提起、考える時期だと思う、と話します。そうしないともったいない、とも。
8時前に帰宅でした。孫の大学入試の合否の報が届かない。ダメだったのかなと心配しながらの就寝でした。
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|24年12月1日 |中島 |
30日、土曜日。朝風呂で身支度。いつものように新事務所へ。みんなの家ななくさの住宅さん、来所。新しい利用者さんとご家族の方について配慮すべきこと、いろいろと聞かせてもらいます。
京都へ。駅周辺は人、人、人の波です。歩いて渡る交差点も一度では渡り切れないほどの人です。外国人が圧倒的に多いのです。
全国革新懇主催の全国交流集会に参加です。会場は京都テルサ。会場周辺は右翼の街宣車で騒々しい。この会場で2012年に第8回地域人権問題全国研究集会が開催されたこと、思い出します。
岡山県から参加したメンバーが2列目を確保してくれていました。発言者の顔がよく見える位置です。
京都の森川弁護士が主催者あいさつ。来賓は京都で市民連合の取り組みをされている白坂さんという方。ミニ講演は3人。桜田照雄さん(阪南大学教授)、田村智子さん(日本共産党委員長)、角田由紀子さん(弁護士)です。桜田さんは、事故が起こらないうちに夢州万博の中止を、と。田村さんは、国会論議は密室でなく国民にオープンしなくては進められなくなった、総選挙での自民党惨敗による大きな変化を強調。角田さんは、ジェンダー平等社会をめざすうえで、ジェンダーは時の支配者の支配をするがために作られたもの、という視点は外せない、と話されます。
講演後の15分の休憩中、目の前に席をとられた角田弁護士さんに、安倍政権時の「家庭教育応援法・案」について、その問題点を整理して書いてくれていたこと、話します。
各地の発言、コロナ禍を乗り越えてきた介護のことにかかわって話された京都の診療所の青年に、頷き応えます。全労連の事務局長の、賃下げにたいしてストライキをしてでも闘うとき、という訴えに労働者魂をみます。12月10日にノルウェー・オスロに出向いてノーベル平和賞授賞式に参加しますという愛知県の原水協代表に、大きな拍手です。11月24日に結成したという兵庫県の西脇・多可革新懇の代表は、その発言が初々しくて声援が飛びます。奈良県からは、自衛隊に名簿を提供するのは憲法などに違反するとして高校生が訴訟を奈良地裁に起こしている問題を報告。いろいろと考えさせられました。
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|24年11月30日 |中島 |
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29日、金曜日。いつものように朝風呂で身支度。新事務所へ。
雑務。みんなの家ななくさの住宅さんに電話。前日の運営推進会議のこと、新たな利用者さんのことなど聞かせてもらいます。
9時前にクリニックへ。数人の方が並んでいました。ちょうど開けてくれて内科には4人目の患者さんに。ひと月前から新たに服薬しだした糖尿病の薬、その副作用では、と先生に話します。変えてみましょう、6週間ほど処方しますと。それから血液検査をという話に。薬局で処方してもらいます。薬剤師さんから、副作用のこと問いかけられます。
スーパーニシナへ。ニンジンや玉ねぎなどの具材を買ってきます。新事務所に帰りカレー作り。早めの昼ご飯のあと、民主会館へ。京都の部落問題研究所から書籍が届いたという連絡があったので。東上高志さんの八鹿高校事件を描いたものです。そのあと、桑田中学校周辺にビラ配布のボランティア活動に。スーパーで食料を。
岡山駅に出向いて翌日の京都行の切符を買っておきます。
新事務所に帰ってきて、3つのみんなの家の預金通帳などを点検。11月末の流動資産、前年、前々年と比較して、今期に返済すべき金額が確保できるか検討です。
事業所運営で話し合い設定をお願いしていることにかかわって、日程や目的などであれこれと。
夕方、母親に食料を届けます。
8時前帰宅でした。
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