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長崎原爆への想い

|24年12月4日 |中島 |

視覚障害者友の会の岡崎茂明さんからのたより、です。

12月4日から10日まで、人権週間とされています。

10日の国際人権デーには、ノルウェーのオスロでノーベル平和賞の授与式があり、日本被団協の方たちが参加されます。

そういう情勢です。ぜひ、皆さんに聞いてほしい、という願いとともに。

以下紹介します。

 

JOAK-FM_伊集院光の百年ラヂオ-街頭録音?原爆投下から4年後の長崎の小学校?_20241110_1100_1150 (2).mp3 54550キロバイト
https://www.dropbox.com/scl/fi/ma5pb4thafarhrznlt4m3/JOAK-FM_-4-_20241110_1100_1150-2.mp3?rlkey=x3idvybnid59b82bauw307aag&dl=0

上のアドレスを開くと、山里小学校での子供たちへのインタビュを聞いていただけます。
この中で、永井博士の娘さんの茅乃さんは、「お父さんは元気です」と話しています。
博士は、2年後、43歳の若さで亡くなられました。
茅乃さんは2008年に66歳で亡くなっています。

筒井茅乃(旧姓永井)氏による被爆者証言
https://www.google.co.jp/url?esrc=s&q=&rct=j&sa=U&url=https://www.youtube.com/watch%3Fv%3DqvNnZ5YnjrM&ved=2ahUKEwiOi672__yJAxXKka8BHY10NNsQtwJ6BAgFEAE&usg=AOvVaw1EtMXfs5Ue42yLITrcxwXv

Microsoft edge Copilotに永井隆博士・長崎の鐘について聞いてみました。

永井隆博士(1908年2月3日 – 1951年5月1日)は、日本の医師であり、放射線医学の研究者として知られています。彼は長崎医科大学(現在の長崎大学医学部)で教鞭をとり、特に放射線治療の分野で多くの業績を残しました –
1945年8月9日の長崎への原子爆弾投下時、永井博士は長崎医科大学病院で診察中に被爆し、重傷を負いましたが、その後も被爆者の救護活動に尽力しました。彼は自身も白血病を患いながらも、被爆者の治療と長崎の復興に尽力し続けました。

永井博士はまた、多くの著作を残しており、その中でも『長崎の鐘』や『この子を残して』などが有名です。これらの著作を通じて、彼は平和と人間愛の精神を訴え続けました 何か他に知りたいことがあれば教えてください。
回答の中では、ウイキペディアのリンク先が紹介されていました。

長崎の鐘 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E3%81%AE%E9%90%98

「長崎の鐘」
藤山一郎 の シングル
リリース
1949年7月1日

サトウハチロー(作詞)
古関裕而(作曲)
藤山一郎の楽曲。作詞・サトウハチロー、作曲・古関裕而。1949年(昭和24年)7月1日にコロムビアレコードからシングルレコードが発売された。
概要?[編集]
藤山は1951年(昭和26年)1月3日放送のNHK『第1回NHK紅白歌合戦』で本曲を歌唱し、白組トリおよび大トリを務めた。紅白ではその後も1964年(昭和39年)・第15回、1973年(昭和48年)・第24回(特別出演)、1979年(昭和54年)・第30回(特別出演、メドレーの2曲目で歌唱)の3回歌唱された。
「長崎の鐘」の吹き込みは最初、池真理子で行おうとレコード会社は考えていたが、歌詞を見た池は「『長崎の鐘』は永井隆博士のご心境を歌ったものであるから、男の人が歌うべき」と思い、尊敬していた藤山一郎による吹き込みを切望し、会社側を説得した。自身は母の気持ちを歌ったB面「いとし吾が子」を吹き込んだ。
ヒットの要因?[編集]
サトウハチローの詞には、原爆を直接描写した部分は全くない(当時の米軍の検閲をはばかったものと思われる)。単に長崎だけではなく、戦災を受けた全ての受難者に対する鎮魂歌であり、打ちひしがれた人々のために再起を願った詞である。古関裕而が作曲し、藤山一郎が優秀な音楽技術で格調高く美しく歌い上げた。なお、サトウの弟(節)も広島の原爆の犠牲者となっている。
レコーディングには逸話が残っている。1949年4月4日、この曲を吹き込むからから来てほしいとコロムビアから彼の家に電話があった。当日藤山は疲労のため体調を崩し40度近い高熱を出し苦しんでいたので、断ろうとした。しかし式場隆三郎や山下清ら関係者がすでにコロムビアのスタジオに来ているということを聞き、妻の運転する車でスタジオに向かった。あくまで関係者に聞かせるための仮録音だからと言われ、病気の藤山は力なく唄った。しかしその歌唱はスタッフ・関係者一同の感動を呼び、再吹き込みを経ることなくそのまま発売された[要検証 ? ノート]。このことはNHKのラジオ番組「昭和歌謡大全集」(小池勇・泉ピン子司会)に藤山が出演した際、彼自身が語っている。藤山は「僕はよい曲を貰うと元気一杯に歌ってしまう。あの時もしも体調を崩していなかったら、この曲はあんなに売れなかっただろう」と述べている。
新しき朝?[編集]
本作を聴いて感動した永井は、「新しき朝」と題する短歌を詠み、古関・サトウ・藤山に贈った。
古関はこれにも曲をつけているが、この曲はソプラノ歌手藍川由美のアルバムCD『古関裕而歌曲集』(1996年)に収録されたのが初録音である。同アルバムには「長崎の鐘」も収録されている。
藤山は自分の作曲による「新しき朝」を、1959年(昭和34年)収録版の「長崎の鐘」の最後にコーダとして収録。ステージでも、たまに歌っていた。
藤原義江の曲?[編集]
藤山一郎版のシングル発売の2か月後、永井一家と交流のあった植本一雄の作詞・作曲による藤原義江の歌謡曲が、同タイトルで発表されている。

長崎の鐘
藤山一郎
作詞:サトウハチロー
作曲:古関裕而

こよなく晴れた 青空を
悲しと思う せつなさよ
うねりの波の 人の世に
はかなく生きる 野の花よ
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る

召されて妻は 天国へ
別れてひとり 旅立ちぬ
かたみに残る ロザリオの
鎖に白き わが涙
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る

こころの罪を うちあけて
更けゆく夜の 月すみぬ
貧しき家の 柱にも
気高く白き マリア様
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る

長崎の鐘 「作曲 古関裕而」 昭和24年 (唄 藤山一郎) – YouTube
https://www.google.co.jp/url?esrc=s&q=&rct=j&sa=U&url=https://www.youtube.com/watch%3Fv%3DZWgKWgE5nFU&ved=2ahUKEwirxsr7w_SJAxV4klYBHV6EDPQQtwJ6BAgGEAE&usg=AOvVaw0saM2ymnfOda_qU0-DtFGD

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