|14年07月11日 |中島 |
10日、木曜日。台風8号の影響での雨が心配な朝、新事務所の付近を散歩です。
雑務。前日の革新懇の会議で配られた総会案内のチラシ、メールで県人権連に送付です。みんなの家だんだんの管理者を兼ねる住宅さんと若い女性スタッフが来所、3人で懇談です。若い人には、少し長めのスパンで、仕事や生きがいなど考えてみたら、と言えるのです。
郵便局に出向いて、保佐しているMさんの受診料や訪問看護の費用などを支払います。銀行に走って、施設利用料を通帳から引き出しです。昼ご飯は、回転寿司屋さんで100円皿を中心に7皿。
午後、ななくさ、かるがもの外部評価、公表するうえでの書類の点検など。そして、今年になって退職されたスタッフメンバーに源泉徴収票を打ち出し、ポストに投函です。ポスト近くの喫茶店から昔の知り合いが声をかけてきます。冷たいコーヒーをごちそうになります。
事務所に帰って、7月15日支給の給与計算。一旦給与表にしてから、元の表ともう一度点検。この日にやってしまおうと決意。その給与表と事業所ごとに引き出す金額の金種表もコピーして、ななくさ、かるがも、だんだん毎に封筒にいれて手渡す準備、8時を過ぎてやつと完了でした。
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|14年07月10日 |中島 |
9日、水曜日。朝は新事務所付近の散歩。
この日は、浅田達雄さんの訴訟、第5回口頭弁論の日です。早めに出かけて、障岡連の取り組んでいる小豆島そうめんの代金を吉野さんに手渡しです。
202号法廷。原告・浅田さん側と被告・岡山市側の準備書面に対して裁判長は、もっと互いの意見をたたかわせて事案の解決に資してもらいたい、という旨の発言。次回を9月3日と決めて、開廷から7分ほどで閉廷。ただちに報告集会は弁護士会館で開催されました。岡山市側の準備書面の内容について、浅田さんの65歳になつた時点ですべての介護給付を打ち切った理由、それは介護保険申請をしないからだ、という点で組み立てている、その点でいえばより争点がはっきりしたのではないかという意見が全体のものに。大阪の障害者の方も支援法に基づく介護と介護保険の介護内容は質的に全く違うと強調されていました。浅田さんは、65歳になつても介護保険を申請しなかったのは、自分自身の信念であると同時にみんなの思いを背に受けたから、という趣旨でお礼のあいさつでした。
午後は、県革新懇の代表世話人会議。急いで昼ご飯を食べたり速足での移動、汗びっしょり、蒸し暑さが体にこたえます。会議では、事務局長が革新懇の全国総会など3つの会議をまとめて、情勢の特徴、憲法改悪など悪政とのたたかいの動向、一点共闘の広がりなど条件とさらなる発展をめざす組織づくりなどが話されていきます。8月10日の県革新懇の総会と学習会の日程と任務なども確認でした。
少しだけ早めに退席させてもらい歯医者さんへ。治療自体は10分ほど、よくなってますよ、というお医者さんの声に励まされて通い続けています。もう4.5回の治療で完治の見通しです。
新事務所に帰って、少し読書と休憩。暗くなってから自宅に帰りました。
写真は、9日の朝の散歩中に。浴衣のがらにあいそう、とふと思うのでした。
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|14年07月9日 |中島 |
8日、火曜日。朝、鹿田町の木村のパン屋さんでサンドウィッチなどを仕入れて新事務所に。ゴミを出して、少しの散歩。
雑務。みんなの家ななくさの住宅さんが顔を覘けて利用者さんの様態、看取り段階での対応などを聞かせてもらいます。18歳の新人スタッフのAさんを我がタントに乗ってもらい岡山商工会議所に。ここがジョブカードセンターになっていて、有期実習型訓練を行うことへの対応をしてくれているようです。社会保険労務士のHさんとおちあい、そのあとの書類作成などの対応も話し合いです。
事務所にもどり、保佐しているTさんの施設へ利用料などの支払いに走ります。郵便局で現金を引き出し、銀行で振込みです。10万円を超えるので、成年後見の登記事項証明書と身分証明書が必要でした。
当方の通帳、ながく記帳していないことに気が付いて、別の銀行にむかいATMで記帳。国税還付金がきちんと入金されていました。それから、前日と同じく中華そばのお店、伴で昼食。熱いそばがほしくて、ラーメン定食。スープをレンゲいっぱいにいれて飲み込むと喉仏のあたりが熱くてひりひりするのです。おいしい、しかし痛い。こんなこと前にあったかな、などと少し心配になります。
午後、6月分のななくさの伝票を持参して住宅さんが来所。国保連への請求状況も聞かせてもらいます。新人スタッフの訓練日誌などをコピーして記入の仕方などを打ち合わせでした。
夕方、みんなの家かるがもの7月度打ち合わせ会議。台風8号接近のことでその対策も気になると管理者さん。すぐ目の前にある用水の水かさが気になるところ。町内の土嚢のおいてあるところのことや、送迎を含めた利用者さんへの対応なども話題になります。新たな利用希望者の方の状況も聞かせてもらいました。
この日は、沖縄から帰ってこられた方、北海道に行かれた方それぞれからお土産をいただきました。どちらも行ってみたいところ、特に夏の北海道は涼しくていいだろうね、1週間ほど避暑にとふと思うのですが、いまのところではそうはいかないね、と頭の中を切り替えるのでした。
写真は、カワデナデシコ。運動公園に咲いてました。可憐です。
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|14年07月8日 |中島 |
7日、月曜日。朝、新事務所。傘を持って少し歩いて西崎食堂に。朝定食にひと品つけて500円ほど。朝の味噌汁、熱いのがおいしいのです。
新事務所に戻って雑務。月曜日なので、みんなの家ななくさの住宅さんと少し打ち合わせ。そして銀行に出向きます。労働保険料の第1期分385,652円、今年1月から6月の間のスタッフの所得税、757,990円、市民税6月分の19万円余り、の支払です。ななくさの通帳からは社会保険料が6月末で140万円余り引き落とされています。7月から11月までが通帳の残高が増えていかなくてはならない時期。運営資金、大丈夫かと頭の中で試算です。税のことに関連して、民主会館の固定資産税のことが気になりだしました。吉岡君に市役所に確認することを伝えます。
麺類が食べたくなって昼ご飯は、児島線を走って伴という中華そば屋さんへ。道中、麺の中でも冷麺をたべようときめたのでした。おいしいからでしょう、食べ終えてももう少し欲しいような、量が足らない感じです。
田中青年が来所。県人権連の事務局会議の設定などです。
この日は、保佐しているTさんの施設の方との連絡をこちらから入れて届いた書面の請求額などを確認。やはり保佐しているSさんの利用する小規模多機能施設のケアマネさんからは電話で腰の状況が思わしくない、しかし本人が検査を受けようとしない、などと当方と同じ悩みを話されます。後見制度のことでの相談が遅くまで続きました。
写真は、7日の運動公園。かりんの実が大きくなっていました。
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|14年07月7日 |中島 |
6日の日曜日。京橋朝市も、後楽園の蓮の見学会も、行ってみようという元気がなく、早くから新事務所に歩いて出かけます。
雑務のあと、ゆっくり新聞に目を通しそして少しの読書。ななくさ管理者の住宅さんから、スタッフの勤務証明のことで来所。介護支援専門員の試験を受けるために必要な書類、採用年月日など確認して二人分作成です。少し歩いて、喫茶ひまわりの店主宅に。結石を体外に排出する仕方も進歩しているようですが、それでも身体にこたえているようなのでしばしゆっくりしたら、と。
事務所で乾麺を湯がし、レトルトのスープを温めた中に放り込んで、スープうどんの出来上がり。結構おいしいのです。
午後から、医療生協会館・コムコムに。映画「標的の村」の上映会です。沖縄本島北部の東村・高江、その160世帯ほどの集落の様子、自然豊かな環境で子育てをしているゲンさん一家の様子が見ていて楽しい。高江では、ヘリパットの建設反対の運動が続けられているとは聞いていました。映画は、反対運動のメンバー15人が「通行妨害」で法廷に呼び出される、そのなかに7歳の子ども、ゲンさんの娘も。その後のフィルムは、普天間にオスプレイが飛んでくるまでのたたかいを接写しています。高江での反対する人、工事を強引に進めようとする立場の人、普天間基地の封鎖活動とそれを阻止しようとする警察隊などとのやり取り、ドキュメンタリーならではの迫力です。沖縄県人を分断させるなと叫ぶたたかいは続きます。割烹着での歌、楽しい楽器を打ち鳴らしながらのアピールなど、沖縄のあきらめない人々の心持を示すエンディングです。
映画を終えて、高江の村で建設反対の運動が「通行妨害」とされてただ一人有罪にされた伊佐さんの連れ合い、育子さんが話されました。メディアの動向。24のメディア関係が取材していた2012年9月のオスプレイ阻止の普天間でのたたかい、これを放映したのは琉球朝日放送がほぼ唯一であった、と。この映画を製作するのも会社内での深い意思統一があってこそなのです、という話でした。
この日は、午前、午後、2回上映。大勢の人たちが鑑賞し話に聞き入っていました。若い人たちが企画し、責任を持ってやりきろうとする姿勢は全体の運営に反映して、とても新鮮でした。
帰りに、近所の施設におられるMさん、当方が保佐している方ですが、にあいによってみました。本人には会えず、スタッフの方から請求書をいただいて帰りました。
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|14年07月6日 |中島 |
5日の土曜日。朝は新事務所に。
雑務、そしてこの日の第8回若者と学ぶ部落問題解決の道筋・学習会のレジメの用意を。歩いて民主会館へ。
9時30分開会の学習会、今回は今井正監督の映画「橋のない川」第1部の上映です。
映像を映す準備の間、かつてこの映画の上映の妨害をしてきた経歴をもつ、灘本氏の反省的回顧した文書を紹介。今井正監督や俳優陣に謝りたいとまで述べていたり、東監督作品とその背景についても見解を述べています。
無事、音も出て、映画は上映できました。127分があっという間に過ぎていきます。終わりには拍手が広がりました。参加者名簿や感想文用紙を準備してなかったのは失敗。30人を超えての参加、そのなかには40数年ぶりの鑑賞した方が多いでしょう。初めてお会いする方々が大勢おられました。みんなの家だんだんの利用者さんも3人来てくれてました。その中のお一人は初めて観た映画だけど、昔の生活を思い起こすいい映画だといわれてました。
この日は、昼ご飯を、3人で中華料理の大福園に。そろって八宝菜定食をいただきます。一旦民主会館に戻って、山下よしきさんの演説を聞きに岡山シンフォニーホールへ。終えて、夜の食事を駅前通りのお店でいただいたのでした。
以下
1993年4月の灘本昌久氏の見解(映画「橋のない川」上映阻止は正しかったか 今井正版・東陽一版を見て)の一部
東作品と今井作品の違いはどこから生まれてきたか
映画の細かい比較はこれぐらいにして、両作品にたいする感想のまとめに移ろう。東作品に幻滅し、今井作品に感動したその違いはどこから生まれてきたかを考える。一般的にいえば、今井監督の作品は「ひめゆりの塔」などの延長にあるクラシックなリアリズムの世界で、今の目から見れば古くさいかもしれない。しかし、住井すゑの原作と今井の社会主義リアリズムはマッチしている。そして、なによりも今井氏にはこの映画を作る動機があったということを強く感じる。島田耕氏によれば、「今井さんは、『橋のない川』の原作が刊行されるとすぐ読み映画化で動き出す(一九六一年)。大手映画会社にも提案するが実現できず、住井さん、今井さんに八木保太郎さんなどで『橋のない川』の製作をする会をつくり協力を呼びかける」(「今井正監督と『橋のない川』のこと」『部落』一九九二年六月号)。今井正版は、今井氏自身の発案と甲斐性で作られたもので、その動機は、社会派の映画監督として、部落問題という当時の日本社会では深刻かつ重要な課題を自分の手で映画にしたいと心から思ったのだろう。作品の端々に、いわゆる「差別に対する怒り」と義憤が感じられるのはそのためだ。ついでながら、永井藤作役の伊藤雄之助は、第一部を撮影する前年の一九六八年に脳溢血で下半身不随になっていたが、撮影には病院から通っての熱演だ。彼のカムバックはこの映画でなった。
一方、東監督は、部落解放同盟の発案に基づいて山上徹二郎プロデューサーから依頼されたときには、まだ原作を読んでいなかった。引き受けるのは原作を読んでからということで、読んで感動し快諾することになる。しかし、映画製作の途中「田植えしたばかりの田んぼを背景にして、もう秋ですねえという会話を撮れというようなことなら自分にはできないから、監督を交代させるしかない」という話が東氏自身によって語られている(『シナリオ 橋のない川』p.155 )。もちろん、このこと自体を批判しようというわけではない。自分の意に反した映画づくりはする必要がない。また、映画製作全体の経過のなかでは、東氏が最大限の努力を払われただろうことは充分に認識し、評価するのにやぶさかではない。しかし、いかにも雇われマダムの感は否めない。はいつくばってでも作り上げたいという今井氏とは、やはり創作動機の点で異なっていたといわざるを得ない。
ただ、東氏の名誉のためにいっておけば、映画のできばえの違いは、単に二人の創作動機に帰せられるべきものではないだろう。時代が作らせたという面もあると思う。今井氏の時代は、社会主義リアリズムがまだ現実と切り結べた最後の時代だった。それを今ここで乗り越える作品を作れというのは土台無理というものだ。東氏に「橋のない川」を撮れというのは、三里塚闘争の映画を撮り続けた小川プロにゴジラを撮らせるようなもので、ミスマッチというしかない。どうせなら、現代の部落の若い人の生活を淡々と描くような作品を作った方が、東監督の力を生かせたのではないだろうか。
おわりに
思いこみにもとづく闘争は、今から振り返ると空恐ろしいものがある。自分で見たこともない映画の阻止闘争。今思い返せばまったく恥いるばかりである。あの映画製作にあたられた今井監督や俳優その他スタッフのかたには深くおわびする。また、あの闘争の論理がその後差別問題をわかりにくくした大きな原因となっていたことにつき、責任を痛感している。
こんなに獲得すべき目標のない闘争もめずらしい。闘争には行き過ぎややり足らないことはしばしばで、思い出してもはずかしいことはままあるが、たいがいは、闘争の根っこはあるものだ。ところが、この上映阻止闘争は、それがみあたらない。もちろん、この映画に批判的な見解があるのは否定しないが、その人の意見が私の抱いた感想より優位にあるという理由はまったくみあたらない。むしろ今井作品への製作妨害や上映阻止がなく、第一部の調子で三部までとおせていたら、どんなにいい映画になったかと思うと、痛恨の極みである。後悔先にたたずとはよくいったものだ。
ところで、古い闘争を今ごろほじくってなんになるといぶかる向きもあるかもしれない。確かに、あの上映阻止闘争なるものが、まったく過去のものになっているなら、私もここで饒舌をふるうまでもない。しかし、「橋のない川」上映阻止で唱えられた批判の論点は、無批判に継承されているというのが実際のところではないだろうか。とくに、差別的作品・表現は一般の人の目に触れさせてはいけない、しかもその基準を作り、あてはまるかどうかを判断する決定権をもつのが反差別運動団体であるという思いこみは、非常に危険かつ有害なものである。たしかに、社会運動の運動方針といったものは、二者択一に書くことを免れないところがあるにしてもこと、表現行為・文学作品については、基本的には世に問うて、多くの人の批判を仰ぐしかないものである。「客観的には差別の助長拡大する」という意見も、意見として訴えかけるべきもので、最後的結論として人に押しつけるようなものではない。また、なされる批判も、組織の対立などに起因する短命な理論から安易に演繹されるべきものではない。
この一文を読まれた読者諸氏のひとりでも多くが、今井版・東版「橋のない川」を見られ、何事かを「禁止」するのではなく、差別問題を深く描いた作品の「創造」に関心をもたれるならば、私の恥じ多き個人的体験をさらしたことも無駄ではないかもしれない。
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