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復旧支援、宮古への奮戦記

|11年11月7日 |中島 |

11月2日から5日までの岩手県宮古市への震災復旧支援行動の記録です。参加した4人、藤澤末博、竹本桂子、三戸康生のみなさん、当方も含めてすべてNPO地域人権みんなの会の構成メンバーでした。

2日の朝、いつものように公園に出向いて散歩。木村のパン屋さんでモーニングをとり、一度事務所に。そして、8時には後楽園近くの竹本桂子さん宅へ。荷物をタントに積み込み、まずは県庁へ。村上君と吉岡君、あわせて4人が県庁スタッフの方々と県政の重点課題について懇談でした。

竹本さんと事務所に戻ります。NPOみんなの会の理事、三戸さんが息子さんから借りてきたワンボックスカーに、事務所メンバーが米や野菜、衣料、暖房具等を詰め込んでくれています。津山からきた藤澤さんもふくめ、シルバーカルテットがいよいよ出発です。民主会館のいろいろな事務所に勤務する大勢の方々がカンパもしてくれて、また見送りにも。

岡山から岩手県宮古市までは1300キロメートル余り。一日目は、新潟市の駅前のホテルまで、約800キロメートルを超えます。岡山インターから米原インターで北陸道に入ります。2日目は、朝8時に出発。北陸道から磐越道、そして郡山から東北自動車道をひた走り、盛岡南インターで高速を降ります。そこから地道を100キロメートル、国道106号線で山をいくつも越えて太平洋側に向かうのです。夕方4時過ぎに、めざす場所付近に到着です。電話して迎えに来てもらいます。

宮古市に10月中旬からボランティアに来ている岡山の知り合いの青年、T田さんを待たせてもらいます。その間、田中さんという市会議員の方に、3・11の様相を聞かせてもらいました。そして、岡山から運んだ、衣料品や暖房器具はボランティアセンターへ。石田正也弁護士から預かった貯金箱も含めた募金やお米、野菜は田中さんたちの事務所に降ろさせていただきました。

宮古市の人口は5万7千人余り、死者525人、負傷者33人、行方不明者118人(認定死亡者107人を含む)、家屋倒壊4675戸(全壊、半壊)。その中でも、今回視察出来た二つの地区、鍬ヶ崎地区は全壊646、田老地区1609、と被害も大きい。

以下、田中さんの説明。宮古市に88カ所の避難所ができた。ホテルや休暇村も避難所として提供してくれた。自衛隊は北海道から復旧支援に、警察の支援は主に治安が役割。残念なことではあるが火事場泥棒的な犯罪の対応も含めて、という実態であった。3・11は市役所で議会が開かれていた。海に囲まれ2階まで浸水状態になったが、幸い市職員に身体的被害はなかった。当初、気象庁が、第2波を3メートルと発表した、直ちに訂正したが、最初の発表が住民にそこまでのもの、という感じを与えたことは否めない。昭和8年の津波対策で10メートル対応の防波堤がつくられている、という安心感があったのだろう。

復旧に向けて、住宅再建資金、国からの保障として500万円にして下上乗せをして合わせて700万円にしたい。昆布とワカメの養殖事業への国からの援助を期待している、7月の宮古市合同慰霊祭に当時の松本復興大臣がきて、市長は弟分でもあるし力を貸してくれると言っていた、そういう地元からの要望を出していくことが大切だという思いが、「知恵を出せ、ださないやつには・・・」という発言なったのかとも思っている、と。問題発言も別の角度で見て深めながらも、根本の問題を捉える事が必要かと思ったのです。

仮設住宅、岩手県全体では2万戸。そのうち2,000戸を地元業者に任せている。宮古市の仮設住宅は2,010戸建設していて、1,776戸に入居している。仮設住宅にも格差があり、2重窓、断熱材、などさらに追加工事が必要なものもある一方、大手の業者が立派なものをつくっている、という状態。大手業者は、仮設入居者に住宅建設を持ちかけている。資金繰りの準備、土地の情報の提供と合わせて、仮設家屋の立派さを売り込み材料としている、と。大企業のそのしたたかさに驚きます。

街づくり、再建について。まず、これ以上津波で命を落とさないよう高台に住み家をつくろうと呼びかけている、しかし漁業関係者や高齢者の方は、前の住み家のように住居を構えたいという思いが強い、若い人はこれからの代々の家になるのだから被害にあわない高台に、という気持ちが強まっている、と。

宮古市の経済力指数は0,4.三陸鉄道の復旧工事は、穀田衆院議員などの奮闘ですべて国が負担することになった。仕事、働く場の確保では何と言っても養殖施設の復旧から。製氷工場が建設されると魚類の水揚げの場となる。仕事興しのため、冷凍工場、ホテル、流通などグループ化して事業化すると対応できる補助金制度をつくった。10億円の予算、宮古方式で、100万円以上の小規模からでも対応している、と。

4日は、朝早くから、鍬ヶ崎漁港と田老地区へ。鍬ヶ崎は新たな魚市場が稼働していました。周辺の建物は基礎だけ残して見る影もない、という状態。その後、魚菜市場に。少しでも地元に現金が落ちるように、当方は宮古産のリンゴ、イカの一夜干しを。

その後、田老地区に向かいます。車で約25分。地元の市会議員さん、崎尾さんが案内役をかってくれました。崎尾さん宅は、自動車整備工場。田代川に面していて、津波があった日に営業用の車を避難させたかったけれど間に合わなかった、約2メートルのところまで水が押し寄せた、あの橋梁を黒い波が乗り越えてきた、と。

そこから、小堀内漁港まで向かいます。

釣りの穴場のような感じの港です。車を停めた場所は高さ海面から30メートルはあるようでした。その上にまで波が押し寄せて、見回りに来ていた消防職員の方が波にのまれてしまい亡くなった、という場所です。津波遡上高、38メートルを超える地点だといいます。

その港のすぐ近所に、グリーンピアの敷地内に、400戸の仮設住宅があります。お店も、歯科医院も出来ています。グリーンピアの宿泊施設も営業しているといいます。これからの冬期の暮らしが心配のようです。

そこから、田老地区に戻ります。防波堤は昭和9年に建設されました。高さ10メートル。台形の上の幅が4メートル、下の幅が10メートルほどありそうな頑丈な構造です。この防波堤の内にある建物がすべて乗り越えて防波堤の外に瓦礫となって残った、といいます。外の建物も学校がある手前までほぼ全壊という感じです。がれきも撤去され、はるかに見える野球場の付近に集められているがれきの一部が見えました。

堤防の内に残っているホテル、その上からほてるの社長さんが写したビデオが当時の実態を生々しく残しているようです。農水省がつくった防潮堤では津波には役に立たず全壊という無残な姿になっていました。

5日は、津山で藤澤さんを降ろし、竹本さんの自宅まで送って、午後7時半に民主会館に無事つきました。

みなさん、思い切って宮古へ行って良かったという感想です。被害の実相をみてくること、そこで必死で復旧のために頑張っている人々と交流できたこと、みんなの気持ちが集まった持参した支援物資が大変喜ばれたこと、ボランティアで1か月も頑張る青年がたくましく思えたこと、何人ものボランティアの人々がうまくねっとワークされていること、などを実感したからです。来年、春にもう一度いけたら、と思っています。往復2800キロメートルの運転も、分担すればそれなりに楽しくなることも発見、今回の新たな成果でした。

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かるがもだより№13、届きました

|11年11月7日 |中島 |

かるがもだより№13が届きました。

秋のお出かけツアー、かるがも農園の特集となっています。かるがもだより№13

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