みんなの会 岡山市北区下伊福西町1-53 ● みんなの家ななくさ 岡山市北区西崎本町1-7 ● みんなの家かるがも  岡山市南区浦安本町158

3・11から8か月、原発ゼロをめざす学習会

|11年11月12日 |中島 |

11日、朝の散歩は公園で。小雨が降り出して傘をさして歩きます。こぶく桜の元気さを確認です。

事務所で雑務。その後、午前中は県労会議に出向いて県政にかかわる会議。昼ご飯を自宅にもどって、前日の夜のハヤシライスをいただきます。県立図書館に出向いて借りた本3冊を返却、新たに4冊を借りてきます。

夕方、勤労者福祉センターに出向きます。11日、毎月原発ゼロの取り組みが展開されていて、今月は、大塚愛さんのお話を聞く会です。福島県川内村からふたりの子どもさんとともに建部に避難されている方で、子ども未来・愛ネットワークの代表をされています。

岡山で育ったのち、岡山大学で教師の目標もあったが、一人で福島県川内村にであって手作りの3畳の小屋をたてて住んでいた、大工さんにあこがれ弟子入り、横浜出身の男性と知り合い結婚、電気もこない小屋の隣りに大きめの小屋をつくり、自給自足的な生活をしてきた、子どもが生まれソーラーパネルで電気をおこしバッテリーで蓄電、その電気量の範囲で生活をしてきた、3・11前から原発問題では命を脅かしてきているという話も間近に聞いていて、学習会などに取り組んできた、などと経緯を紹介してくれます。

そして、3.11の地震、そして翌日の福島原発事故に対応されてきた流れ、夫婦間の考え、川内村への思い、なんてことをしてくれたという怒り、などを話してくれました。会津若松に避難し、翌日新潟から高速を使い岡山の実家まで帰ってきた、という道筋が、先般、宮古市からの帰る道中と同じ道だけによけい実感が伝わってきます。

もう40回も講演したけれど、まだまだ語りつくせない、川内村への思いがベースにあるから、という話しは、イマジンの曲に独自にフラダンスを合わせて踊ってくれた、その中に凝縮されている、とうけとめました。未来が開かれる思いにも通じました。

下の写真は、12日の夜明け前、後楽園に飾ってあった菊人形。

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かるがも会議

|11年11月11日 |中島 |

10日、朝は事務所について近所周りの散歩です。

事務仕事のあと、歯医者さんへ。また麻酔注射をしての治療、それでも新たな薬の処方はしなくてもよい程度ですみました。3日ほど歯ぐきがいたむかもしれない、あとは4ヵ月後の検診ということ、ホッとします。その後、母親の食料を買い出しに。

午後から、林病院のラウンドをキャンセルさせてもらいます。そして、みんなの家かるがもへ持参する資料などの準備。ななくさ、にいただいた柿を、かるがもへのおすそ分け、いただきに寄ります。

夕方から、11月のかるがも会議。管理者、事務長、ケアマネ、当方の4人会議です。利用者さんの動向、新たな利用を希望されている世帯への援助のあり方・仕方、事務作業の迅速化などが課題です。「地域と人権」の11月号を持参してみんなに読んでもらいます。全国版、県連版、月刊誌を購読しようということに。かるがも事務長から、男性介護者の会交流会のビラを受け取ります。11月20日は何かと重なってしまっています、うーむ・・・。男性介護者の会交流会、岡崎起恵子さんの介護体験

帰りにななくさに立ち寄ります。管理者、ケアマネのみなさんと懇談でした。10時前に帰宅、缶ビールを2本飲んで、この日もうたた寝。12時過ぎに布団に入って就寝でしたが中途半端な睡眠となってしまいました。

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障害者岡山フォーラムの成功に向けて

|11年11月10日 |中島 |

9日、まだ暗いうちから公園で散歩です。ラジオ体操の放送が流れる時間にはタントで木村のパン屋さんに向かいます。

事務所で、雑務。8時過ぎには来客があり、11月30日開催の障害者フォーラムの開催準備の会を。11・30岡山フォーラムへ  その会議に参加されていた吉野先生と個別相談。その後明石さん来館、和気にある生家のことが気になっている様子。その後、病院に行って時間待ち、という感じで花田の健ちゃん来館、二人で奉還町のじくやの蕎麦をいただきに行きます。当方は二日続いて、やまかけ蕎麦。ここ、じくやのそば、冷たくてのど越しがなんとも言えません。大盛りでも少し物足りない感じでした。

午後は、県地域人権問題研究集会の第5回実行委員会。小畑実行委員長が参加できないなか、新たに3名の方が参加してくれました。20名ぐらいの参加です。全体像を示すうえでビラの内容を論議。そして5つの分科会担当者ごとにわかれて深めあいました。

夕方から、ななくさ会議。慎ちゃんも、かるがもに出向いてきたと元気そうで、5人会議となりました。開設から5年が過ぎたこともあり、改めて備品台帳の整備、スタッフと集団における規律と連携・連帯、県地域人権問題研究集会へのレポート作成などが関連しての話題となりました。

この夜は、9時ごろからビールを1本だけですぐうたた寝状況。11時過ぎに本格的に布団に入ってディパスを飲んで就寝でした。

写真は、10日の朝の白いバラ。1本だけ、孤高という雰囲気が漂っていました。

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県との話し合い

|11年11月9日 |中島 |

8日、歩いて事務所に。少し遠回りして30分ほどの散歩にします。

この日は、県人権連と県との話し合い。少し資料に目を通して、集中すべき課題はなにか、頭の整理です。早めに事務所をでて、昼食を県庁近くの真金堂で、やまかけ蕎麦をいただきます。量が少し足らない感じ、それだけ美味しいのでしょう。

話し合いは、かつて購買部があったところで。人権連の役員と県労会議、高教組、生健会、障岡連の幹部も参加してくれて総勢30数名の参加。防災、福祉、地域、教育、労働、低空飛行問題などの分野で課題を提起しての話し合いでした。

夜は、情勢の把握と諸団体の運動を交流する会議。TPPの課題が大きな話題となります。全国集会の状況と岡山の農協JAの姿勢も話題になります。

下の写真は、9日の朝、公園に咲いていた、こぶく桜、春と秋に咲くとききました。

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運動と研究、そして事業活動

|11年11月8日 |中島 |

6日の日曜日、朝5時には起床。早朝の配達物をすませます。その後、少し横になって新聞をよんでいると少し2度寝の状態に。それでも9時過ぎには事務所に。

この日は、おかやま人権研究センターの秋の合同研究会。10時開会です。愛媛大学の鈴木静先生、まだ30代半ばの女性でしたが、朝日訴訟を学んで変わる学生たち、?人権教育のあり方を考える―、と題して話されます。耳にきもちよく通る声、伝え方も若さと熟練がミックスされています。講師はまず、今の学生も20年前の学生も基本的には変わっていない、変わったのは大学教育、人権教育は止まってしまった感がする、と現状を概観的に分析します。

学生とともに社会問題が起きている現地に行く。それはどうしてこんなことが許されるの、という声も含めて、学生たちの好奇心が「開く」、そのことが人権教育の出発、だと強調されます。40年前の学生部落問題研究会のとりくみを思い起こしてくれました。

11時から、みんなの会館での、地域人権運動みかどの会の総会に出席です。ななくさの利用者のなかの数人の方が、慎ちゃんたちに送ってもらって一緒に参加してくれていました。ちょうど花田の健ちゃんがあいさつしていました。議員の方々のあいさつや事務局長の活動方針提起のあと、当方も、東北支援の報告をさせてもらいました。住民間、世代間、地域毎、に分断させようとする政治が続く中では、つながりをこちら側からつくり上げていく運動が重要だということ、その一つとして朝ごはん会をやりませんか、ということも話させてもらいました。

事務所に戻って、午後からも、合同研究会に参加です。吉井中学校の北川久美子先生の「地域と連携した文章表現活動の展開」も楽しく聞けました。近くの喫茶店で個展を開いていた壺阪輝代さんのお名前が出てきました。出前講座で講師をされているようでした。北川先生のゆったりとした物言い、聞きやすいのでした。荒れていた時代から、表現力を培う地道なとりくみを通じて教育を再生させてきた長年の教師経験に裏付けられた報告でした。

つづいての京都橘大学の碓井敏正先生は、成長社会から成熟社会へ―市民社会・参加・責任?と題してのお話でした。社会発展について、資本主義から社会主義(体制論)、成長社会から成熟社会(市民社会のあり方論)という二つの捉え方がある、という話から始まります。成長社会は、国家主導、受動的政治文化、個人主義的権利観が特徴で、一方成熟社会の特徴は、市民社会主導、公共的業務への参加、義務・責任重視、という特徴がある、と。

例えば生存権にかかわる要求実現の方法にも、対国家に対して権利を主張する、という形態のみならず、例えば介護などの事業活動を通じて、それを媒介して課題を国家に要求するという形態も新たな時代に必要である。当然として、事業主体が経営主体としての責任をコミュニティに対してもきちんと果たすことが最低限度必要であるが、と、強調されます。性善説の対象となっている公益法人、NPO法人などの内部が成熟することが大切であり、公共、企業、第3セクターのベストミックスを考えながら社会を成熟させていくことが求められていると話されていました。

7日の朝は、事務所に着いてから散歩。この日は、宮古への震災復旧支援活動をまとめることに費やします。地域と人権・県連版、11月号のトップ記事になります。途中、明石さん来館してくれて県政資料を持参してくれました。中元さんにお土産の林檎を手渡します。宮古の方面は放射能汚染はどうなのかと話題にも。館内の諸団体にも宮古産の林檎を。ななくさには、お饅頭を持参しました。

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復旧支援、宮古への奮戦記

|11年11月7日 |中島 |

11月2日から5日までの岩手県宮古市への震災復旧支援行動の記録です。参加した4人、藤澤末博、竹本桂子、三戸康生のみなさん、当方も含めてすべてNPO地域人権みんなの会の構成メンバーでした。

2日の朝、いつものように公園に出向いて散歩。木村のパン屋さんでモーニングをとり、一度事務所に。そして、8時には後楽園近くの竹本桂子さん宅へ。荷物をタントに積み込み、まずは県庁へ。村上君と吉岡君、あわせて4人が県庁スタッフの方々と県政の重点課題について懇談でした。

竹本さんと事務所に戻ります。NPOみんなの会の理事、三戸さんが息子さんから借りてきたワンボックスカーに、事務所メンバーが米や野菜、衣料、暖房具等を詰め込んでくれています。津山からきた藤澤さんもふくめ、シルバーカルテットがいよいよ出発です。民主会館のいろいろな事務所に勤務する大勢の方々がカンパもしてくれて、また見送りにも。

岡山から岩手県宮古市までは1300キロメートル余り。一日目は、新潟市の駅前のホテルまで、約800キロメートルを超えます。岡山インターから米原インターで北陸道に入ります。2日目は、朝8時に出発。北陸道から磐越道、そして郡山から東北自動車道をひた走り、盛岡南インターで高速を降ります。そこから地道を100キロメートル、国道106号線で山をいくつも越えて太平洋側に向かうのです。夕方4時過ぎに、めざす場所付近に到着です。電話して迎えに来てもらいます。

宮古市に10月中旬からボランティアに来ている岡山の知り合いの青年、T田さんを待たせてもらいます。その間、田中さんという市会議員の方に、3・11の様相を聞かせてもらいました。そして、岡山から運んだ、衣料品や暖房器具はボランティアセンターへ。石田正也弁護士から預かった貯金箱も含めた募金やお米、野菜は田中さんたちの事務所に降ろさせていただきました。

宮古市の人口は5万7千人余り、死者525人、負傷者33人、行方不明者118人(認定死亡者107人を含む)、家屋倒壊4675戸(全壊、半壊)。その中でも、今回視察出来た二つの地区、鍬ヶ崎地区は全壊646、田老地区1609、と被害も大きい。

以下、田中さんの説明。宮古市に88カ所の避難所ができた。ホテルや休暇村も避難所として提供してくれた。自衛隊は北海道から復旧支援に、警察の支援は主に治安が役割。残念なことではあるが火事場泥棒的な犯罪の対応も含めて、という実態であった。3・11は市役所で議会が開かれていた。海に囲まれ2階まで浸水状態になったが、幸い市職員に身体的被害はなかった。当初、気象庁が、第2波を3メートルと発表した、直ちに訂正したが、最初の発表が住民にそこまでのもの、という感じを与えたことは否めない。昭和8年の津波対策で10メートル対応の防波堤がつくられている、という安心感があったのだろう。

復旧に向けて、住宅再建資金、国からの保障として500万円にして下上乗せをして合わせて700万円にしたい。昆布とワカメの養殖事業への国からの援助を期待している、7月の宮古市合同慰霊祭に当時の松本復興大臣がきて、市長は弟分でもあるし力を貸してくれると言っていた、そういう地元からの要望を出していくことが大切だという思いが、「知恵を出せ、ださないやつには・・・」という発言なったのかとも思っている、と。問題発言も別の角度で見て深めながらも、根本の問題を捉える事が必要かと思ったのです。

仮設住宅、岩手県全体では2万戸。そのうち2,000戸を地元業者に任せている。宮古市の仮設住宅は2,010戸建設していて、1,776戸に入居している。仮設住宅にも格差があり、2重窓、断熱材、などさらに追加工事が必要なものもある一方、大手の業者が立派なものをつくっている、という状態。大手業者は、仮設入居者に住宅建設を持ちかけている。資金繰りの準備、土地の情報の提供と合わせて、仮設家屋の立派さを売り込み材料としている、と。大企業のそのしたたかさに驚きます。

街づくり、再建について。まず、これ以上津波で命を落とさないよう高台に住み家をつくろうと呼びかけている、しかし漁業関係者や高齢者の方は、前の住み家のように住居を構えたいという思いが強い、若い人はこれからの代々の家になるのだから被害にあわない高台に、という気持ちが強まっている、と。

宮古市の経済力指数は0,4.三陸鉄道の復旧工事は、穀田衆院議員などの奮闘ですべて国が負担することになった。仕事、働く場の確保では何と言っても養殖施設の復旧から。製氷工場が建設されると魚類の水揚げの場となる。仕事興しのため、冷凍工場、ホテル、流通などグループ化して事業化すると対応できる補助金制度をつくった。10億円の予算、宮古方式で、100万円以上の小規模からでも対応している、と。

4日は、朝早くから、鍬ヶ崎漁港と田老地区へ。鍬ヶ崎は新たな魚市場が稼働していました。周辺の建物は基礎だけ残して見る影もない、という状態。その後、魚菜市場に。少しでも地元に現金が落ちるように、当方は宮古産のリンゴ、イカの一夜干しを。

その後、田老地区に向かいます。車で約25分。地元の市会議員さん、崎尾さんが案内役をかってくれました。崎尾さん宅は、自動車整備工場。田代川に面していて、津波があった日に営業用の車を避難させたかったけれど間に合わなかった、約2メートルのところまで水が押し寄せた、あの橋梁を黒い波が乗り越えてきた、と。

そこから、小堀内漁港まで向かいます。

釣りの穴場のような感じの港です。車を停めた場所は高さ海面から30メートルはあるようでした。その上にまで波が押し寄せて、見回りに来ていた消防職員の方が波にのまれてしまい亡くなった、という場所です。津波遡上高、38メートルを超える地点だといいます。

その港のすぐ近所に、グリーンピアの敷地内に、400戸の仮設住宅があります。お店も、歯科医院も出来ています。グリーンピアの宿泊施設も営業しているといいます。これからの冬期の暮らしが心配のようです。

そこから、田老地区に戻ります。防波堤は昭和9年に建設されました。高さ10メートル。台形の上の幅が4メートル、下の幅が10メートルほどありそうな頑丈な構造です。この防波堤の内にある建物がすべて乗り越えて防波堤の外に瓦礫となって残った、といいます。外の建物も学校がある手前までほぼ全壊という感じです。がれきも撤去され、はるかに見える野球場の付近に集められているがれきの一部が見えました。

堤防の内に残っているホテル、その上からほてるの社長さんが写したビデオが当時の実態を生々しく残しているようです。農水省がつくった防潮堤では津波には役に立たず全壊という無残な姿になっていました。

5日は、津山で藤澤さんを降ろし、竹本さんの自宅まで送って、午後7時半に民主会館に無事つきました。

みなさん、思い切って宮古へ行って良かったという感想です。被害の実相をみてくること、そこで必死で復旧のために頑張っている人々と交流できたこと、みんなの気持ちが集まった持参した支援物資が大変喜ばれたこと、ボランティアで1か月も頑張る青年がたくましく思えたこと、何人ものボランティアの人々がうまくねっとワークされていること、などを実感したからです。来年、春にもう一度いけたら、と思っています。往復2800キロメートルの運転も、分担すればそれなりに楽しくなることも発見、今回の新たな成果でした。

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