慰霊と鎮魂、祈りの広島
6日、木曜日。70回目の広島原爆忌の日です。
朝、4時過ぎに起床。朝風呂など身支度をして新事務所に。JR備前三門駅、5時39分発の吉備線に乗って岡山駅に。広島まで往復の切符を買って、6時10分発のこだまの2両目の一番前に乗り込みます。
福山から乗られ当方の左隣りに座った老紳士、東広島あたりから話しかけてこられます。福山から広島市にこの日一番早く行ける列車がこれなんです、慰霊に行くのです、70年前のこの日も暑かったんです、中学校2年生でした、2年生と3年生は数キロ離れた工場に出かけていたのですが1年生は学校にいました、その学校、315人いた中学1年生のうち当日生き残ったのは70数名、亡くなった1年生の3回忌を行ったとき、その生き残った70数名のうち15名しか生きていなかった、と。
岡山大学に進学されたというこの男性、岡山市の東川原で14年住んでいたとも話してくれました。火傷のケロイド、蛆虫がわくのです、それを一匹一匹とってもらう、当時の鉄道は早く復興したけれども、列車の天井は蠅で真っ黒になるほどだった、蛆がわく条件があったんです、と。二つ年上のいとこがいまだに行方不明なんです、と教えてくれたこの方に、お元気でと広島駅でお別れでした。
広島港行の市電にのって、本町あたりで下車。地下道を歩いて原爆ドームをめざします。
ドーム周辺は、怒号が聞こえてきました。マスクとヘルメット姿の集団です。鎮魂、慰霊にはふさわしく思えません。ドームに心の中であいさつ、元安橋を西に超えて平和公園に。8時からの平和式典の会場を取り巻く人となります。広島市議会議長のあいさつの後、市長の平和宣言、8時15分の黙祷、子ども代表のあいさつなどを間近で聞きます。安倍首相のあいさつを耳にしながら、公園内を歩きます。1999年に現在地に建立された韓国人原爆犠牲者慰霊碑、年間1千万羽の折鶴が届くという原爆の子の像などを写真におさめます。その像のすぐ近くの日陰で、「さだ子の願い」という紙芝居が上演されていました。
紙町通りに出て、中国新聞の号外をもらいます。喫茶店に入って、その号外をゆっくり目を通します。
広島駅、11時過ぎのこだまに乗って岡山駅へ。そして備前三門駅にかえって、新事務所に。身体中に熱を持っているようです。広島で買ってきた、あなご飯で昼食。しばし休憩でした。
3時過ぎてから、雑務です。5時過ぎて、みんなの家ななくさの住宅さんと利用者さんが増えたこと、その対応などで話し合いです。
夕方は、岡山市職労主催のピースコンサートに。西川アイプラザの5階ホールで、沢知恵さんが「戦後70年われ問う」と題してのコンサートです。沢さん、岡山市に引っ越ししてきて1年と数か月たちました、昔からよく8月6日には広島へ、9日には長崎に出かけて行ったものです、街中がわき立っているんです、大勢の人たちの命日なんです、その雰囲気を肌身で感じるのです、と話されていました。そう、そう、慰霊と鎮魂、祈り、そんな気持ちが街中に満ち満ちていて、人も優しくなれる、そんな一日が8月6日のひろしまなんだ、と彼女に共感、最新のCD、われ問う、も買ってみた、あつい一日でした。
記事分類 NPO人権みんなの会記録 | コメント 0 »