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空飛ぶ車椅子・沖縄への旅 その4 お世話になりました

|19年11月24日 |中島 |

20日、水曜日。沖縄最後の日です。

ホテル東横インで6時半過ぎに一階ホールへ。この日は全員、早くから食事をされています。昨夜の打ち合わせが守られています。少し硬いけれど白いご飯とみそ汁、美味しいのです。ついでにパンと珈琲もいただいたり。朝から食欲旺盛です。

8時に駐車場へ。この日のガイドさん、沖縄平和ネットワークの川上さんも来てくれています。この方、鹿児島市から沖縄県へ移住されてきた女性。泳げないのに辺野古の海を守れとカヌーをつかって国の横暴と闘っている方でした。8時半に出発。平和記念公園へ。その道中、ガイドの川上さんから沖縄戦の話、小高い丘が戦争時には日本軍の拠点とされていたことなどを聞かせてもらいます。平和公園では雨が降ってきたので、資料館入口の屋根の下で沖縄県の地図を見ながら川上さんの説明を全員が聞かせてもらいます。特に朝鮮半島から連れてこられた人たちへの慰霊、思いを込めて話されていました。摩文仁の丘、平和の礎をあるきます。

国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ記念碑です。岡山県の場所まできて、岡崎さんには彫られた名前を指で触ってもらいます。それぞれ鎮魂の思いを込めて名前に目をおとします。

続いて、魂魄(こんぱく)の塔へ。平和ガイドの川上さんの説明。「真和志村(現在の那覇市)にも米軍の燃料施設などがつくられ、村民は帰村することができませんでした。46年1月21日、米軍は、金城和信を真和志村長に任命し、村民を摩文仁村(現在の糸満市)に集団移住させました。村民は各地の収容所から集められ、46年2月末の人口は8270人となり、村民の食糧確保は大きな課題でした。そのため村民は、周辺の畑を耕すことになるが、出てくるのは住民や兵隊の遺骨で、まず遺骨の収集から始めなければなりませんでした。こうして集められた遺骨は、一カ所にうず高くまとめられ、2月27日には「納骨所」として、最頂部の石に「魂魄」の文字を刻んで完成しました。これが戦後初めての沖縄住民による慰霊塔・碑です。1963年那覇市識名に「中央納骨所」が建てられると、「魂魄」の3万5千の遺骨も分骨した後、「中央納骨所」に移されました。そして1979年、摩文仁の国立沖縄戦没者墓苑に転骨され、現在は象徴骨を残すのみです。」

この日の昼食は、ひめゆり会館。広いお土産屋さんでもあります。1階の食堂で準備してくれていました。全員が、沖縄そば御膳をいただきます。そこから歩いて、ひめゆりの塔に献花。そしてひめゆり平和祈念資料館へ。ここも、障害者手帳を提示して介助者も無料になりました。『証言ビデオ 平和への祈り ひめゆり学徒の証言』を視聴です。その後館内を見学です。

少し急いで那覇市内へ戻ります。川沿いにある、瀬長亀次郎の不屈館へ。入り口は段差がありますが車いす用のリフトがありました。カメジロウの二女にあたる館長の内村千尋さんと若い女性のスタッフさんたちが笑顔で迎えてくれます。ここの入場料も、一人400円ですが、障害者の人と介助者1名が無料となっていました。映画・カメジロウで撮ったけれどカットされていた亀次郎の連れ合いのフミさん、那覇市の市議会議員にもなられた方ですが、そのフミさんの映像をたっぷり入れたビデオを視聴です。館長さんから不屈館の運営、さらなる資料を展示するうえで新たな不屈館を建設したいという話もききます。建設募金、吉野団長から手渡されました。それぞれお土産を買っていました。当方は、不屈館ガイドブックとカメジロウの言葉が印刷されたクリアファイルなどを購入でした。

ここで、ガイドの川上さんとさようならです。那覇空港へ向かいます。運転の氏平さん、森脇さん以外の13人が空港で手続きに。二人はレンタカーを返しに。全日空のカウンターで搭乗手続きをします。車椅子のふたりにも窓口に来てもらい、座席も何回か変更しながらやっと完了。空港の2階にあがります。セルフサービスの座席を確保してトンカツ、タコライスなど食べている人たちもいます。まだお腹が空かないのでコーヒーとサーターアンダ―ギで済ます人などいろいろ。

夕方、6時過ぎに搭乗手続きを済ませて25搭乗口へ。JTA016便です。浅田さん、吉田さんの車椅子を、空港スタッフさんたちが取りに来てくれて、二人は木製の車椅子に乗り換えます。一番に二人と視覚障害者の岡崎さんも機体のなかへ。沖縄へ来るときは前の方でしたが、帰りは一番後ろ側になりました。

年金者組合で役員をされている田中先生と真ん中にIさんを挟んで座ります。本当、ラジオもテレビもいらない、ずーと話をされているのです。今回の最高年齢者でしたがとてもお元気でした。

岡山空港には夜8時半過ぎに着陸。手荷物受取の場で車椅子を受け取り、最後に吉野団長から締めのあいさつ。浅田さん、吉田さん、岡崎さんたちが参加してくれたことで成立した旅であったこと、その方々の介助に皆さんの力をあわせてくれたこと、沖縄の人たちと連帯できたこと、氏平・森脇のお二人が3日間通して運転をしてくれたこと、企画を具体化した事務局の努力のこと、などに感謝です、というまとめでした。全員で一本締め。浅田さん、みんなの家だんだんの住宅さん、杉本さんが迎えに来てくれていました。この夜は、そのだんだんで泊まるということで、浅田さんにとっては、前泊も含めあわせて4泊の旅になりました。準備から含め、大変だったろうにと思います。ご苦労様でした。

以上で3日間の行動の報告です。130人を超える方々から合わせて13万5千円の募金をいただきました。すべて沖縄のとりくみに手渡してきました。おせわになりました。

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空飛ぶ車椅子・沖縄への旅 その3、辺野古の闘いと連帯

|19年11月24日 |中島 |

19日、火曜日。「空飛ぶ車椅子・沖縄への旅」の二日目です。

ホテル東横インは朝6時半から朝食。もう並んでいます。岡崎さんたちのグループにはいち早く席を確保してくれたよう。無料なのでパンとコーヒー程度の朝食かと思っていましたが、バイキング形式で白ご飯、炊き込みご飯、お粥などもあり、また珈琲やシークワーサー等の飲み物とパン類もなにかとあって充実しています。食事会場に降りてこないメンバーに電話もいれます。8時出発だから早めにご飯を食べておいて、と。

8時に、前日に引き続き氏平さん、森脇さんの運転でホテルを出発です。安保の見える丘・道の駅かでなに9時過ぎに到着。ここで沖縄平和ネットワークの北上田さんと合流。展望台から戦闘機の飛行、その爆音を実際体感している私たちに、彼は嘉手納基地の近隣に住んでいます、自宅では昼寝中の1歳の坊やが戦闘機の爆音で眼が覚めてしまいます、と。普天間基地だけでなく嘉手納基地の問題、当面、米軍に約束をまもってもらうことを重視して政治が取り組んでほしい、とはなされます。夜間は飛ばないことになっているのに、それが守られていないと、悔しい思いをにじませながら。

10時前、道の駅かでなを出発。沖縄道を走り、宜野座のインターチェンジでおりて辺野古の浜に。ここで、氏平さんがSNSで知り合いになった早坂義郎さんに出迎えてもらいます。辺野古の漁港前の小屋、10年余り前に来た時と様子は違っているようです。しかし、8年の2639日の闘いとそれに連続して5693日の座り込み、という数字が辺野古の住民の平和への思いの強さ、かってになどさせないぞという団結力の強さを示しています。早坂さんは千葉県に住いがあるけれど、辺野古の新基地建設反対名護共同センターに1年間のうち300日は居る、という生活を5年余り続けているといいます。名護市内にアパートを借りての生活のようです。漁港沖は遠浅、この日の天候は曇り、その影響もあるのか、はるか沖合がブルーでした。車椅子の浅田さん、吉田さんにもその浜の段差があるところまで来てもらいます。

そして、平和を守れの思いをそれぞれがしたためた寄せ書きの集まりをみんなでひろげてパチリ。岡山で寄せられた「辺野古新基地反対闘争支援募金」も吉野団長から早坂さんへ手渡します。車椅子の扱いに慣れている森脇さん、吉田さんと一緒にその段差あるところから降りるとき、後ろ向きに倒れそうになってみたり。仲良く楽しんでいるのです。長年の付き合い、信頼感が分厚いと感じたり。

その後、早坂さんに案内してもらい、キャンプシュワブゲート前へ。ちょうど支援者の方々が集会をされていました。岡山から買ってきてもらったきび団子などを差し入れです。その方々がゲート前に移動します。私たちは対面の位置から、工事をやめろ、と唱和です。外国人の男女も座り込んでいます。機動隊隊員が予定していたように座り込みしている人たちを一人ひとり引き抜いていきます。コンクリートミキサーの大きなトラックが次々と到着。長い列を作ります。早坂さんによると、土曜日は支援者が1000人ぐらいが集まってくる、機動隊が退去させるまでに相当の時間がかかるから、土曜日は工事をストップしている、と。県庁の辺野古新基地問題対策課の話で聞いた、埋め立ての砂の投入はいまだ1パーセントしか進んでいない、という背景はこういう取り組みも反映しているのだ、と胸が熱くなるのでした。

早坂さんとお別れして、美ら海水族館へ。遅くなった昼ご飯、バイキングのレストランへ。一人1200円程度。適当に食べ物をとって早めにすませます。そして、水族館へ。障害者手帳を持つ人4人とその介助者4人が無料。残りが1850円×7人で全員入場です。魚は何をみても楽しいもの。その中でちょうど3時にジンベイザメへの餌やり。オキアミを中心に小さく切った餌です。2匹のジンベイザメ、大きいのです。餌を効率よくとらえるために一匹が立ち泳ぎします。水族館の出口から集合場所、レストランの前に到達するまでが大変。道順がわからない人が続出。最後のお一人、Tさんは集まる場所自体を忘れてしまった、と。携帯電話の電源もほぼ切れかかっていたようで電話を掛けられなかった、といいます。どうにか、こちらからの電話には出てくれて居場所を確認して無事に一緒に車まで到達でした。

海中道路で有名な古宇利島へは、参加者の多数から、早く宿に帰りたいという意見が多くて取りやめに。一路、前夜と同じ那覇市内の東横インまではしります。途中、うるま市あたりで、真上をオスプレイが飛んでいます。助手席から2機目は写真におさめることができました。

東横インに着いたのが夕方6時過ぎ。それぞれ組をつくって食事に行ってください、と提案です。コンビニで弁当を買ってすます人たちもいました。浅田さんたちのグループは、5人で組をつくって定食屋さんへ。そこまでは案内します。当方は、もう少しお腹を空かしてからと7時半ごろ、人権連の竹本さんと竹本さんの甥、河原さんたちと5人で多国籍料理のお店で、ビール、焼酎、紹興酒などで沖縄の最後の夜を楽しんだのでした。宿に帰ると、この日も電気とテレビをつけっぱなしでぐっすり朝の4時ごろまで熟睡でした。

 

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