ちょっと昔を
|20年02月8日 |中島 |
7日、金曜日。朝、目覚ましが鳴らずに寝坊。あわてて朝風呂で身支度、池の鴨たちにパンを投げ入れてから出発。新事務所へ。
雑務。みんなの家ななくさの住宅さん、来所。みんなの家だんだんの利用者さん、新たな契約のことなど聞かせてもらいます。大野辻のコープのお店に走ります。少し昼ご飯用の食材と母親のためのポカリスエットなども手に入れます。
新事務所に帰ります。ハヤシライスで昼食です。
午後、住宅さんと一緒に榊原病院へ。Sさんのお見舞いです。昔の利用者さん、Kさんが住んでおられた地域を回って帰ってきます。みんなの家ななくさをほんと頼りにしスタッフさんを好んでおられて、迎えに行かない日でも、5キロもある道を押し車を押しながら歩いてでも顔を見せに来られていた時代もあったね、などと昔話になります。
新事務所にかえって、書類に目を通します。人権連の前身、全解連時代の機関紙「解放の道」岡山版の縮刷版を探して、80年代後半から90年代初頭の取り組みなどに目を通します。当時の山陽新聞社幹部の「差別発言問題」を解決するうえでの覚書を改めて見てみます。また、88年の知事選挙は、協立病院の医院長の水落おさむさんが大奮闘されたこと、89年11月には全解連と地元実行委員会主催の部落問題全国研究集会を開催して、当時の岡山市立浦安体育館に7000名が参加したこと、実行委員長が原野翹先生であったことなどとともに様々な枝葉のことも思い起こすのでした。
途中、母親のアパートに、朝コープのお店で買ったイチゴなどを届けます。なかなか外に出ようとしないのが気になりますが、もうしばらくは仕方ないか、とおもったり。
記事分類 NPO人権みんなの会記録 | コメント 0 »